前年住吉神社の能舞台で演じたことは、それ以降の私のマイムに大きな変化をもたらしてくれました。
能舞台をごらんになったことがない方もいらっしゃると思います。能の舞台と通常の舞台との相違点は多々あります。
多くの違いがある中で演じる私たちがもっとも影響を受けるのが、舞台と客席の作りだと言ってよいでしょう。
およそ三間四方の舞台がいわゆる本舞台になるのですが、その舞台に至るには舞台に出る前に装束や気持ちを整える「鏡の間」という
日常の空間と非日常の空間の境界から、「橋がかり」という渡り廊下(こんな言い方をしたら叱られるかもしれませんが)を渡っていくのです。
「橋がかり」は客席から向かって本舞台の奥左側に、直角より少し開いた角度(およそ100度)で作られています。
舞台の大きさはどの能舞台もさほど違いませんが、橋がかりの長さや角度は一定ではありません。
客席は舞台の正面と舞台に向かって左側の脇正面、そしてその間の中正面の三カ所。そして実は右側には能楽堂によっては御簾ごしに
脇正面と向かい合う形で特別な客席が有る舞台もあります(国立能楽堂にはこの御簾越しの客席があります)。
そしてこの舞台と橋がかりには、かつて野外で行われていた名残で屋根が付いているのです。
また舞台の奥の板には、立派な枝振りの大きな松が描かれているのです。
さて、これで能舞台をイメージして頂けたでしょうか?十分とは言えないですね、実際に行って見て下さるのが一番です。
さて、この舞台に立つ演者には正面だけではなく、横からも観客の視線があるということです。
舞台で演じている間はじっと一方を向いている訳ではないので、常に前後左右、つまり全身に観客の視線を浴びているというわけです。
舞台は出たら最後、観客に全身をさらし逃げも隠れも出来ないのです。いやはや、これに慣れるのが最初は大変でした。
元々能舞台でやりたいと思ったのは、三間四方という大きさに興味を持ったことからなのです。
初演以来、それまでに経験のない大きな舞台(私には)で演じる事で、その大きさを埋めなければという思いから舞台全体を走り回る
ような動きになって、動き回れば回るほど作品が拡散してしまい、何回か目には中身が薄く焦点が見えない舞台になったように感じて
いました。そこで考えてみたのが、通常の舞台の上に三間四方の大きさに平台(三尺×六尺の台)を置いてその上で演じることでした。
そのときは能舞台のこともほとんど知らず、たまたま考えて行き着いた大きさが能舞台と同じであったと言うことなのです。
何故三間四方かと言えば、その広さが見た目に一番収まりが良く、しかも動く上でしっくり来たからとしか言えません。
後で能舞台の広さが三間四方だと知った時はびっくりで、何故能舞台が三間四方なのか、ならば是非その舞台に立ってみたいと思った
のです。勿論我々のような門外漢が、格式を重んじる能の舞台に立てるなんて夢にも思いませんでした。
能舞台で出来るようになった経緯は既にこの前に書きましたが、さて実際に立ってみると戸惑うことばかり。
大きさはちょうど良いのだけれど、横からも見られているということで、初めのうちは演じていてもどうにも落ち着かず、矢張り自分には
この舞台を使いこなせないのかという思いでした。ところが二回、三回と舞台を使わせて頂くうちに、逆に横からも見られていることに
心地良さを覚えるようになったのです。それまでの舞台だと正面に並ぶお客さんと気持ちの上でも向き合っている(対決している)ような
感覚だったのが、能舞台ではお客様に包まれて共にひとつの空間を共有しているような気持ちに感じられるようになったのです。
舞台をお客さんと共に作り上げていく、そんな演劇の最も大切な事を能舞台に立って演じる事で実感することが出来たのです。
そうなるともう普通の舞台では何か物足りなく、むしろ落ち着かなく感じるようになってしまいました。
能舞台の魅力は実際に舞台に立った者でなければ判らないかも知れません。私は本当に幸せなんだと思います。
鏡の間(楽屋)から本舞台に行くまでの橋がかりを歩く時、私が言いしれぬ快感に包まれている、なんてお客様には申し訳ないですね。
この時以来、梅若さんにはずーっと舞台を使わせて頂き、今年(2009)の舞台が能舞台での上演25周年、四半世紀になろうとは感無量です。
能舞台で演じる魅力についてはまだまだ書き足りません、またいずれ。
私のマイムの転機になったのが、この夏の博多住吉神社能楽殿での上演。博多は79年に2回目の上演をした地で、その後も天神
地下街のイベントなどで、毎年何度も訪れていた。友人達がやっている行きつけの店も出来、そこで飲みながら話す中で「いつか能の
舞台でやりたいと思っているんだ」と言ったのがきっかけで、友人の一人が中心になって住吉神社に話をつけてくれ、夢だった能舞台
で上演できる事になった。格式を重んじる能舞台は、まず能楽以外のものが使わせて頂ける事はなく、「出来ることになったよ」と連絡
をもらった時には正直なところ信じられないような気持ちでした。
この能舞台は相当古いもので、境内の野外に作られた舞台だったのに後から屋根や壁で覆ったそうだ。
松葉目にも歴史を感じさせられ、また舞台はまるで鏡のように磨き抜かれ黒光りがする美しさであった。下見に行った時に案内して下
さった高齢の女性が、長年舞台を守って来られたそうで、毎朝必ず、牛乳を染みこませた布で磨き上げておられたのだ。
舞台に立つとくっきりと自分の姿が板に映るのです。ご自分が立つこともないのに宝物のように愛着を持って大事に守ってこられた舞台、
いい加減な気持ちで立っては申し訳が立たない、舞台当日はそんな思いで本番を迎えました。
公演の日は真夏の8月、それもきれいに晴れ上がった暑い日だったと思います。夕刻、まだ明るいうちの開演だったのですが、会場
には冷房がなく客席のあちこちに氷の柱をおいて扇風機で冷風を送って見て頂きました。建物も普通の木造建築で防音の設備は当然
無い訳です。上演中には救急車のサイレンが聞こえたり、神社で飼っている犬の鳴き声が聞こえたりと、今の劇場の設備になれてしま
っていると何かと気になる条件だったのだが、そのときはそれらの音や暑さも気にならず、すべてが自然に解け合った舞台でした。
能舞台で演じる事で自分のマイムは大きく変わりました。この時出来なかったら今こうして能舞台で演じる事もなかったかもしれません。
その後に各地の能舞台で演じさせて頂けるようになったのは、住吉さんでやらせてもらったのなら、と認めて下さったからです。
残念ながら福岡には最近は新しい能楽堂が出来たために、住吉さんの能舞台は現在ほとんど使われていないようです。
舞台を守っておられた女性も、もう亡くなられてしまった事でしょう。十年ほどになるでしょうか、久しぶりに住吉さんを訪ねた時は
人の気配がなく、窓越しに見た舞台は久しく使われていないようで、もう黒く輝いてはいませんでした。
これを書いていて気がつきました。今年(2009)の梅若の舞台で能舞台での上演も25周年になることを。
1983年6月、アムステルダムの有名なミルキーウェイで上演。ここはかつてミルク工場だったところを、ヒッピーたちが合法的に?
占拠して劇場に改装したのだそうだ。共同経営者のひとり、日本人の久慈さんに前年出会い実現した公演で、実に面白い体験でした。
前年は小学一年だった息子とまだ入学前の娘を連れてきたのだが、中ではあちこちでマリファナを吸っていたりして、小さな子連れの
日本人は彼らにはさぞ異常な客だったとおもいます。小さな運河を挟んだ向かいは何と中央警察、その警察の目の前で「マリワナ、
マリワナ」と客を誘っているのですからびっくり。もちろん私たちはやりませんでしたよ、念のため。
さて、古い建物の中には大小様々な劇場があり、それぞれに演劇やら音楽やらダンスやら映画やらが同時進行していて、入場時に
手の甲に押されたスタンプがあれば、あとは一日出入り自由。 好きな時に好きなものがいくらでも見られるシステム。
黒人女性歌手の、心にずしんと来た歌声が未だに忘れられません。また三人だったか、マイムのような芝居も面白かったですね。
公演に来た年は久慈さんの家に下宿させて頂きいたのですが、そのときに矢張り下宿していた若いプロの自転車選手、
今はどうされているのだろうか。若者たちが夢に向かってひたむきに突っ走っていた、そんな時代だったように思います。
さてこの公演で忘れられないことが一つ。舞台を終えた翌日、とにかくほっとして公園をぶらぶらしていたときに、自転車の乗った若者が
追い抜きざまに振り返り、「やっぱり君だよね。夕べの舞台を観たよ。とてもよかった。」と言ってくれたのです。
嬉しかったですねえ。海外で演じるのは二回目、どう受け止められたか不安だったときの一言は本当に有り難かったです。
こんなふうにごく自然に声をかけてくれたことに、演じることと見る人が同じ目の高さで交歓できる。
構えずごく自然体で文化を楽しむヨーロッパの人たちの心の豊かさを感じたものです。
犬の糞だらけの道路、上からはまたカモメの糞が爆弾のように落ちてくる。昼間は生臭くて汚い街が、夜になると豆電球のイルミネー
ションでがらりと別世界に。きれいでしたね。これを書いていて無性に行きたくなりました。あのミルキーウェイはどうなったことか。
さぞ変わったことでしょうね、アムステルダムも。
さてこの年は長野で初めて公演したのだが、予想通りというか何というか大赤字を作る。父の故郷・長野は小さい時からよく連れて行かれ、
東京生まれの私にはちょっぴり田舎を感じる地であったことから公演を作ったのだが、矢張り集客は思うに任せず、しかも劇場の付帯
設備費がとんでもない金額になっていて愕然。最初にしっかり確認しなかった自分の落ち度だから仕方がないのだが、まさかこういう
計算になるとは言うことばかりで、今でもはっきり覚えているくらいのショックだった訳です。
県民会館が出来たばかりの時で、ロビーには分厚い絨毯と豪華なシャンデリアが備えられていて、この余計な装飾代が高額な備品費
になっているのだと、劇場に文句を言ったのは当然でしょう。当時はあちこちにこんな無駄遣いをした劇場が乱立していたのだ。
この後しばらくはすっかり落ち込んでいたのですが、毎度のように「捨てる神有れば拾う神あり」で、この舞台を観て下さった女子校の
先生が、自分の高校の演劇鑑賞で是非取り上げたいと電話を下さり、経済的にも、精神的にも(経済的に救われれば精神的にも救われ
てしまう、私は至って単純です)救われました。この時から長いおつきあいをさせて頂き、その後には農村歌舞伎舞台での上演や、
東部町のマイムフェスティバルの実現へと繋がっていきました。瀬田先生、今も長野の高校で教壇に立っておられます。
どんなに無謀と言われても、まず自分から動かなければ何も始まらない、このときもその思いを痛切に感じました。
私のマイム生活40年はこの繰り返し、まだまだこれからもこんな生活が続くのでしょうか・・・。
1982年9月、西ドイツのケルンで初めての海外公演が実現した。前年だったと思うがケルンからマイミストのミラン・
スラデク氏が来日公演を行った。その折に紹介して頂いた縁で氏の主催する国際マイムフェスティバル「道化'82」
に招待出演の話を頂いたのだ。
私の師・佐々木博康先生も、一年後輩の並木孝雄氏も、多くの先輩達もヨーロッパにマイム修行に行く中で、私は自分も家も
経済的に苦しく、とても海外に勉強に行くなどということはできない状況だった。「マイムはやはり本場のフランスに行って
勉強しなければだめなのだろうか・・・」、そんな思いもあったが、生来の負けず嫌いで「自分は日本人、この日本で勉強して
日本人のマイムを創作し、いつか必ずヨーロッパの舞台に立ってやる」と思っていました。
その思いが実現したわけです。飛び上がるほどに嬉しい話でした。
早速交流基金に申請したところ、幸い渡航費の援助をもらうことが出来、一ヶ月をや家族とスタッフを兼ねて一緒に来てくれた
友人らとドイツに渡りました。そう、このときは何と漫画家の美内すずえさんも取材を兼ねてケルンに来られ、その時のことを
あの「ガラスの仮面」単行本の最後に書いてくれています。
さてフェスティバル「道化’82」は当時おそらく世界で一番充実したマイムの祭典だったろう。
ヨーロッパの各地からマイムや一人芝居のような作品、インドネシアの舞踊劇、南米からはダンスマイムのような作品と、
世界中から集まった参加者がバラエティーに富んだ演目を一日に数作品ずつ、市内数箇所の劇場で上演するのだ。
私はまだ名もない東洋から来たマイミスト、果たしてお客さんが来てくれるだろうかと不安のうちに当日となった。
また、日本人の感覚で創った自分の作品をドイツの観客が理解してくれるだろうかという不安も大きかった。
高校の小さな講堂でサブ会場だったが、あけてみれば熱心な観客で満席、反応も良く翌日の新聞評には「小柄な日本人が、
大きな感動をもたらした」という好意的な評が載った。
主催者の一人から「私は『いのち』がとても良かった」と言ってもらったことが忘れられない。
自分の祖父が亡くなったときに創った作品で、物語があるわけでなし、淡々と静的な動きが続くだけの作品で、日本人でも
判らなかったという人が多く、きっとドイツのお客さんには判ってもらえないだろうと思っていたから、この一言がそのご自分が
マイムを続けていく上で大きな自信となった。
フェスティバルでは自ら演じたことが何より大きなことだったが、会期中、他のほとんど全ての作品を見歩き、日本では見たこと
がなかった様々な表現に出会えたことが何よりの収穫だったといえる。
後に何度も来日することになるスイスのディミトリーの至芸にも感動、イギリスのマイムには絶妙な味があり、私自身のマイムに
対する視野を広げてくれた。
そしてこのフェスティバルでは忘れることができない出来事が一つ。ドイツのマイミスト、ロルフ・シャレが会期中に亡くなったことだ。
ミランスラデク氏がある日の舞台挨拶で「今日、我々の敬愛するロルフ・シャレさんが亡くなった」と客席に語りかけたのだ。
客席からは驚きと深いため息が起こったように記憶している。
ロルフ・シャレは私がマイムを初めて間もない頃に来日し、私が初めて見た外国の、それも本格的なマイミストだったのだ。
マルソーが太陽なら月のような人、上下とも黒い質素な衣裳で、華やかさからはほど遠く、とても地味なマイムだったが、
誠実な人柄がにじみ出た温かで堅実な作風の作品を演じておられた。TV の世界に入ってしまう話や、日本の「羽衣」をマイムにした
作品が印象に残っている。
このときはフェスティバルが終わった後、家族共々オランダに行き、ヒッピーの造った劇場として名高かったあの『ミルキーウェイ』
で、日本人スタッフとして活動されていた久慈さんにお会いすることになる。翌年のミルキーウエイの舞台はこのときの出会いから
実現した。
二回目の京都公演のすぐ後、6月には秋田県横手市民会館で公演。既にあちこちで書いた友人・故和賀敏雄君が
初演の舞台を見に来てくれたときに、終演後の打ち上げの席で「いつか必ず横手に呼ぶから」と言って帰ったのだが、
その約束を果たしてくれて実現した舞台だった。まだマイムなんて知る人がほとんどいない時代、しかも若造の舞台を
引き受けてくれるなんて半信半疑でいましたが、確かこの年の正月早々に「清水さん、やるぞ!」と電話が掛かって
きたのです。嬉しかったですねえ。このとき初めて「幻の蝶」を自分以外の人がプロデュースしてくれたのですから。
和賀君の熱いエールはズーンと心に響きました。舞台の出来がどうだったか、それはもう覚えていないのですが、
和賀敏雄という同世代の理解者がいてくれる、ということがどれほどその後の活動の力になったことか。
そしてこのときもう一人、私にとって大切な方が和賀君の後ろについていてくれたのです。
高橋繁樹さん、この数年前に秋田で初めて公演をしたときにお世話になっていたのです。東北電力に勤めながら地元の
劇団で中心メンバーとして精力的に活動をされていました。いきなり訪ねた面識のない私の公演を色々手助けしてくれて、
また劇団でマイムのワークショップを開いてくれたりと、物心両面で力になって下さいました。和賀君はその高橋さんに
かわいがらていたのです。東京まで和賀君が見に来てくれたのも、たぶん高橋さんから私のことを聞いていたからでしょう。
「繁樹さん」と若い人たちに慕われていましたが、本物の芝居馬鹿といえる方なのです。私の母と同い年ということで85歳、
今なお現役で役者として舞台に立っておられます。仕事の上での出世はもとより望まないと、定年まで「好きな芝居を続ける
ために仕事をしているんだと」公言して憚らない人でした。誰もがモーレツ社員として働くことがすべてという時代に、5時に
なるとさっさと仕事を切り上げて芝居人間に変わってしまう。それは見事に潔い人で、私はそんな高橋さんが大好きで秋田に
行くたびに連絡して、芝居談義に熱中したものです。
和賀君が先立ってしまったときにはそれは寂しそうで、このままがっくり老け込んでしまうかなと思ったのですが、いやいや
その後も芝居に明け暮れておられます。私が府中に住んでいたときに、スタジオで高橋さんに来て頂いて一人芝居をして
もらったのも懐かしい思い出です。その時には和賀君がスタッフとして一緒に来てくれたのでした。
翌年4月の仙台公演は繁樹さんとモダンダンスの森谷紀久子さんに大変お世話になった。
その森谷さんには、西武百貨店にあったスタジオ200で行われた森谷さんのダンス公演にゲストで出演させていただき、
貴重な経験をすることができた。
30年の間に「幻の蝶」はこういう素晴らしい人達との出会いを沢山作ってくれました。
大失敗の京都初演から一年、意地の再演だったように思う。でも初回に観て下さった数少ない
お客様が友人知人を誘って下さり、200人を超える動員となった。いろいろな人に言われていたのだが、
京都人は初めての人にもとても人当たりが良く接してくれる。私の初回もそうだったのだが、実はそうして
相手が本気かどうか見極めているところがあり、受けた印象とは違って実際には殆ど何も手助けして
貰えなかった。ところがこちらが本気だと判って貰えたこの二回目はまるで変わって、口伝てに声を掛けて
下さって、期待以上のお客様が見に来て下さったのだ。
以来京都では講習会やら公演やらと毎年のように、いや時には年に何回も訪れる事になった。
この頃の講習会では未だにお付き合いのある方が沢山いる。毎年「幻の蝶」東京公演に駆けつけて下さる
西野さんもその一人。当時は確か関学の学生さんだったと思う。こうして30年近く経っても観ていただける
事は、何にもまして私には嬉しく有り難いことであり、同時に何よりの励みとなっている。
もう何年も京都公演をしていない。そろそろ又京都で公演をしたいものだ。
◆京都・尼崎公演 (1980年) 11/5
二年目は京都と尼崎公演から始まった。京都、尼崎それぞれに400人以上入る劇場。
それでも京都は其れまでにも小さな公演をしたりと多少の繋がりもあったのだが、
尼崎は皆無。とても採算が見込めるような条件ではなかった。
例によって人の伝手だよりという向こう見ずな公演で、案の定悲惨な結果となった。
それぞれ400人以上の定員なのに京都は60人、尼崎に至っては40人にも満たなかったと思う。
大赤字も大赤字、スタッフを連れていたものの帰りの交通費にも窮するような状態だった。
さすがにスタッフからも企画自体の見通しの甘さを指摘され、結果を目の当たりにしては
弁解の余地もない状況であった。
でもこれがその後に京都や大阪で活動をしていく切っ掛けになったのだから、何が功を
奏するか判らないものである。この公演で京都での講習会が出来るようになり、上海太郎さん
、金谷暢雄さん、そして藤井伝三(F伝三)さん等との出会いに繋がったのだ。
それにしても手伝ってくれるスタッフに多大な迷惑を掛けるのは矢張り良い事ではない。
以降は少し慎重になったように思うのだが、そう思っていたのは自分だけかも知れない。
毎年1回の東京公演を続けてきたと言っているが、実はこの年だけ公演をしていないのだ。
前年の12月に池袋での公演があった為にとうとう出来なかった。
ほぼ年に一度という事になり、今になるとちょっと残念。
◆パモス青芸館 (1979/12 池袋・パモス青芸館) 10/20
一年間で八回目、東京・池袋にあったパモス青芸館という小劇場でこの年最期の公演を行った。
よくもまあ八回も、とその時の自分の狂いようは今の自分にはとても理解できない。
北海道は小さな空間だったが、福岡、盛岡と大きな劇場での舞台が続き、その大きさに精一杯対抗
してきたような時だったので、小さな空間でホッとしたかったのだろうと思う。
でも、期待に反して何とも窮屈に感じたのを覚えている。
客席も後ろの方になると前の人の頭で腰ぐらいまでしか見えなくて見づらかったという意見が多く、
小劇場でやる場合の注意すべき事を多々勉強した舞台になった。以来小空間で小作品をやるときには
まずは足元まで見える事を第一の条件にしているのだが、日本の劇場はどうもその辺りの事を考えて
作られていないものが多いのはどうした訳だろうか。
劇場の設計者や依頼者が舞台表現に精通していない人が多いのだろう。そうとしか思えない。
それはそうと、確かこの時の舞台を多摩芸術大学の学生さん達が卒業制作として撮影してくれ、
フィルムになっているはず。いずれDVDに起こしてみよう。
◆北海道公演 (1979/10 北海道・札幌 こぐま座) 9/24
このページを書き始めて改めて自分が如何に無鉄砲だったかを思う。
熱い想いで初演の舞台を終え、その想いは冷えるどころか益々燃えさかっていたのですね。
周りはどんなに迷惑だったことかと、今にして思えば冷や汗たらり、背筋がぞくっとするような感じです。
“若気の至り”とはいえ、さぞかし皆さんに迷惑を掛けたり、顰蹙ものの事をしたことでしょうね。
今更ですがその節は本当にお世話になりました。
さて札幌の会場は円山公園の中にある人形劇用の劇場・こぐま座。
100人も入ったか、小さな小屋でしたが、其れだけに客席との一体感が感じられるとてもやり易い小屋だった
ように記憶しています。
何で札幌でやる事にしたのか、実は覚えていないのですねぇ。やはり沢山の方にお世話になったはず
なのに恥ずかしい事です。福生に住んでいたときの友人が苫小牧出身で、その同居人だった人が作品
の衣装を担当してくれた近藤順子さん。「マロード」のお客さんだった今井保行さんが江別、劇団の友人も
札幌にいたように思うので、そんな方々を頼りに突っ走ってしまったのでしょう。
また当時は結構イベントの仕事も多くて、札幌にも何回か行っていたように思いますからその伝手も
頼った事でしょう。こうして思い出そうとすると、何と自分勝手に動いていたかが判ってきて恥ずかしい限りです。
周りが何も見えていなかったという事です。
さて、この公演での最大の思い出といえば「リンゴ」。何かにも書いたし、またよく言ってきた事なので
ご存じの方もいるでしょう。
確か終演後の打ち上げの席で、「秋の日の想い出」の中で少年が柿を盗む場面について、あるお客さんが
「そうそう、私も良くやったのでとても懐かしかった。ああして取って食べたリンゴの味は忘れられない」
といわれたのです。リンゴを民家の塀越しに盗むんて思いも寄ぬ事だったのでビックリしたのですが、
北海道には柿が無くて、皆リンゴで同じような事をしたんだとか。
他所の家の木に手を伸ばしてそっと盗るのはリンゴなんだそうです。
この話を漫画家の美内すずえさんが覚えていおられ、先日の対談の時にもその話になりました。
「観客は自らの記憶で舞台を見ている」という事なのです。観客ばかりではなく作品を作り演じる我々も
、記憶(様々な)によって作品を創作し、演技をしている事になるといって良いでしょう。
我々人間の行動は記憶(経験)によって決められて、まるで経験のない事は何が何だかさっぱり判ら
ない訳です。意識上か意識下を問わず、我々は作品や演技を通して、観客の記憶を如何に刺激して
いくかを考えなくてはいけない訳ですね。想像力も記憶の産物と言えるのではないでしょうか。
左の詩は 当時良く一緒に仕事をさせていただいた須永博士さんが
パンフレットに寄せて下さったもの。
1979年1月26日初演〜2024年へ
幻の蝶 45th