幻の蝶 43th


以下は一昨年、40周年の舞台を前に綴ったもの、それ以前に掲載したもので読み返すと読みづらいなあと思いましたが、
敢えてそのままにしておきます。

来年2022年の2月に43年目の舞台を迎えるにあたって、改めて今思うことを綴っていこうと思います。
お時間が許すときにどうぞお付き合い下さい。          2021/11/08


◆40周年   2019.1.9

 いよいよ、と言うか漸くと言ったらいいのだろうかこの作品を初めて演じてから40年となりました。
今はなくなってしまいましたが水道橋にあった労音会館の舞台で、それまでに作りためた作品の中から10作品を選んで上演したのがスタートでした。
今は8作品で構成しているのでもう二本多かったので、上演時間が二時間半近かったかと思います。
終演後の私は演じ終えた後の心地よい疲れと充足感に酔っていましたが、長時間おつきあいくださったお客様にはさぞかしお疲れになったことだろうと思います。
受付では途中の休憩でもう終わりと思われたお客様から「まだあるんですか?」と尋ねられたという話もありました。
今は芝居でも二時間を超えると長いと思われるようですから、言葉のないマイムでの二時間半はさぞ長く感じられたでしょうね。
それでも途中で帰られた方もなく最後まで見届けてくださったお客様、昔の人は我慢強かったのでしょうね。

 40年、この作品を通していろいろなことがありました。
私のマイム生活のすべて、それは即ち私の人生のすべてがこの作品とともに歩んだ時間にあったと言っても過言ではないと思います。
30になる少し前に作った作品ですから当然未熟で想いばかりが先行していたと思います。
「観念的だ」と言われた『いのち』や『幻の蝶』、確かにそうだったでしょうね。
その先行した頭に40年かけてようやく身体が追い付いた感じです。

 この時のスタッフやお客様、初演を見てこの作品をぜひ秋田でと言って終演後に熱心に声を掛けてくださった和賀さん、思い起こせば胸が熱くなるばかりです。
初演の時のお客様には当然ですが亡くなられた方が何人もおられます。
和賀さんも若くして旅立たれました。
また40年の間にスタッフとして支えてくださった照明の辻本晴彦さんや宣伝デザインの田中芳男さん、写真家の吉岡宏さん、
私の初めての能舞台公演をアレンジしてくれた博多の倉内富代さんはじめ多くの方が亡くなってしまわれました。

 ライフワークとして一生演じ続けようと決心したのが初演の時、でもまさかこうして40年を迎えることが出来ようとは感無量です。
支えてくださった多くの方々の想いを無にしないように、これからも気負わず、淡々と体と心が動く間は演じていきたいと思います。

今年は3月2日、3日のプーク人形劇場での舞台をスタートに各地で上演したいと企画を立てています。
お近くで公演があるときにはどうぞ観にいらしてください。
少しは余分な力が取れて演じることが出来るようになりました。
この作品を一人でも多くの方に観ていただきたいと願っています。







◆能舞台での上演   2018・12・8
今年は39年間でたった二回、公演が出来なかった年でした。
能舞台で演じるようになって34年になりましたが、思ってもいなかった会場のダブルブッキングでやむを得ず公演を断念したのです。
能舞台で演じることで作品はおろか、私のパントマイムは大きく変わりました。
年に一度、思いを新たにしながら作品と向き合う場でしたので、その悲しさを言いようもありませんでした。

昨年70歳を迎えたときに改めてこの先何回、この舞台を踏むことができるだろうかと考えました。
年に一度、80歳まで演じることができたとしてあと11回だけなのです。
梅若の舞台に立ってからも33年、ダブルぶっきんがで断念したときにはこの舞台に立てる機会が一回少なくなってしまったと思っただけでしたが、
まさか二度とこの舞台に立つことが叶わなくなるとは思いもよらないことでした。

33年間、能の舞台を使うに当たっては演じる私もスタッフも、能舞台への敬意をもって細心の注意をもって公演を作ってきました。
それでも時に思い至らないことでご迷惑をおかけしたこともありましたが、能の舞台を軽んじて使ったことは一度だになかったと断言できます。
なので、梅若で管理されている方からもいつまでも使ってくださいと言っていただけたのだと思います。

ところが舞台を能以外に開放してから時にはまったく思慮のない使い方をされる方もいたようで、信じられないことなのですが舞台に釘を打った人もいたとか。
そのほかにも器材の設営などで舞台への配慮に欠けた使い方をした団体もあったのでしょう、ダブルブッキングが判明した後会館を所有する梅若会の方々の中で協議があり、
舞台の使用方法が大変厳しいものになってしまいました。
舞台の内側に照明の設営はしてはいけない、そればかりか客席にも、客席の後ろ上部のギャラリー部分にも照明の設営は認めないとなったのです。

つまり能で使う使い方以外は認められなくなりました。
パントマイムは何も道具を使わないので照明の役割は非常に重大です。
能舞台で上演するために私の照明を長年作ってくださった故・辻本晴彦さんは舞台を気づ着けないように細心の注意と工夫で能舞台用に器具を手製で作ってくれました。
その照明は能舞台を最大に生かしたうえで、私のマイムを最大限に引き立ててくれたといってよいと思います。
その明かりで演じている本番を当然自分は観ることが出来なかったわけですが、多くの方々から能舞台で演じるマイムを高く評価していただきました。
辻本さんが亡くなられたのちはお弟子さんの立川直也さんが引き継いでくださり、辻本さんの明かりを継承しつつご自分の想いを加えながら素晴らしい照明で助けてくださってきました。

会場の管理をされている方からは、このように条件が変わってしまいましたが私には長く大事に使ってくださっているので、このような条件になってしまいましたが、
それで良ければこれからも使ってくださいと言っていただいたのですが、辻本さん、立川さんの照明なしに演じることは出来ないのでお断りしました。

この舞台で作品を演じることが楽しくて仕方がない私としてはこの上なく寂しいことですが、これは新しいステージに進めということなのだろうと受け止めています。
梅若の舞台に立つことは二度とありませんが、京都や大阪、その他の能舞台ではまだ使わせていただけるところもあるようです。
長年の能舞台上演で得たものを、今後は劇場の舞台に生かしつつ再び能舞台に立つ日を楽しみに待ちたいと思っています。

40周年は新たなスタートの年になりそうです。

                                                   


◆館山での公演 〈1985/7〉      2012/8/18記
 久しぶりに書き込もうとして、いかに記憶が曖昧になっているかを思い知らされる。どういう経緯で館山で公演をさせて頂いたのだったか…?
館山に住む明星さんという方から連絡を頂き実現したことはしっかり覚えている。でも明け星さんはどうして私のことを識ってくれたのか、
この辺りは全く記憶にないのだ。多分それまでの舞台、おそらく梅若の舞台を観てくれたのだったかと。

夏の暑い盛りの舞台、しかも南房総ですから公演の記憶と言えば、ぎらぎら、燦々と照りつく太陽で真っ白に輝く会館の外形だけなのです。
勿論舞台はどうだったか、お客様の反応はなんて残念ながら全く記憶にないのです。
そんな中ではっきり覚えているのが、明星さんに連れて行ってもらった浜金谷に近い“岬”という喫茶店とご主人のこと。
房総の海岸沿いを走る国道から、海側に入ったよくぞこんな所にと思うような場所に店はある。
始めていったその時から、ずーっと識った店のような居心地の良さを感じ、すっかりお店の虜になってしまいました。
東京湾に沈む夕日を眺めながら過ごしたこの店は、その後もずーっと私の大切な宝のように心に残り、今もこちらの方に来る度に立ち寄って
いるのです。この夏も近くで行ったマイムの合宿の帰りに参加した生徒たちと立ち寄って帰りました。
長い間公演を重ねて来たことの収穫は、こういう人との出会いと言って良いでしょう。
あれからもう28年、今も現役で舞台に立てることに感謝しつつ、まだまだ続けようという思いを持ち続けていられるのは、こういう一つ一つの
出会いがもたらしてくれた喜びなのでしょうか。


◆梅若能楽学院
   
    (1985/2)      

 前年住吉神社の能舞台で演じたことは、それ以降の私のマイムに大きな変化をもたらしてくれました。
能舞台をごらんになったことがない方もいらっしゃると思います。能の舞台と通常の舞台との相違点は多々あります。
多くの違いがある中で演じる私たちがもっとも影響を受けるのが、舞台と客席の作りだと言ってよいでしょう。
 
 およそ三間四方の舞台がいわゆる本舞台になるのですが、その舞台に至るには舞台に出る前に装束や気持ちを整える「鏡の間」という
日常の空間と非日常の空間の境界から、「橋がかり」という渡り廊下(こんな言い方をしたら叱られるかもしれませんが)を渡っていくのです。
「橋がかり」は客席から向かって本舞台の奥左側に、直角より少し開いた角度(およそ100度)で作られています。
舞台の大きさはどの能舞台もさほど違いませんが、橋がかりの長さや角度は一定ではありません。
客席は舞台の正面と舞台に向かって左側の脇正面、そしてその間の中正面の三カ所。そして実は右側には能楽堂によっては御簾ごしに
脇正面と向かい合う形で特別な客席が有る舞台もあります(国立能楽堂にはこの御簾越しの客席があります)。
そしてこの舞台と橋がかりには、かつて野外で行われていた名残で屋根が付いているのです。
また舞台の奥の板には、立派な枝振りの大きな松が描かれているのです。
さて、これで能舞台をイメージして頂けたでしょうか?十分とは言えないですね、実際に行って見て下さるのが一番です。
 
 さて、この舞台に立つ演者には正面だけではなく、横からも観客の視線があるということです。
舞台で演じている間はじっと一方を向いている訳ではないので、常に前後左右、つまり全身に観客の視線を浴びているというわけです。
舞台は出たら最後、観客に全身をさらし逃げも隠れも出来ないのです。いやはや、これに慣れるのが最初は大変でした。
 
 元々能舞台でやりたいと思ったのは、三間四方という大きさに興味を持ったことからなのです。
初演以来、それまでに経験のない大きな舞台(私には)で演じる事で、その大きさを埋めなければという思いから舞台全体を走り回る
ような動きになって、動き回れば回るほど作品が拡散してしまい、何回か目には中身が薄く焦点が見えない舞台になったように感じて
いました。そこで考えてみたのが、通常の舞台の上に三間四方の大きさに平台(三尺×六尺の台)を置いてその上で演じることでした。
そのときは能舞台のこともほとんど知らず、たまたま考えて行き着いた大きさが能舞台と同じであったと言うことなのです。
何故三間四方かと言えば、その広さが見た目に一番収まりが良く、しかも動く上でしっくり来たからとしか言えません。
後で能舞台の広さが三間四方だと知った時はびっくりで、何故能舞台が三間四方なのか、ならば是非その舞台に立ってみたいと思った
のです。勿論我々のような門外漢が、格式を重んじる能の舞台に立てるなんて夢にも思いませんでした。

 能舞台で出来るようになった経緯は既にこの前に書きましたが、さて実際に立ってみると戸惑うことばかり。
大きさはちょうど良いのだけれど、横からも見られているということで、初めのうちは演じていてもどうにも落ち着かず、矢張り自分には
この舞台を使いこなせないのかという思いでした。ところが二回、三回と舞台を使わせて頂くうちに、逆に横からも見られていることに
心地良さを覚えるようになったのです。それまでの舞台だと正面に並ぶお客さんと気持ちの上でも向き合っている(対決している)ような
感覚だったのが、能舞台ではお客様に包まれて共にひとつの空間を共有しているような気持ちに感じられるようになったのです。
舞台をお客さんと共に作り上げていく、そんな演劇の最も大切な事を能舞台に立って演じる事で実感することが出来たのです。
そうなるともう普通の舞台では何か物足りなく、むしろ落ち着かなく感じるようになってしまいました。
能舞台の魅力は実際に舞台に立った者でなければ判らないかも知れません。私は本当に幸せなんだと思います。
鏡の間(楽屋)から本舞台に行くまでの橋がかりを歩く時、私が言いしれぬ快感に包まれている、なんてお客様には申し訳ないですね。
この時以来、梅若さんにはずーっと舞台を使わせて頂き、今年(2009)の舞台が能舞台での上演25周年、四半世紀になろうとは感無量です。
能舞台で演じる魅力についてはまだまだ書き足りません、またいずれ。                



◆住吉神社能楽殿     (1984/8)

 私のマイムの転機になったのが、この夏の博多住吉神社能楽殿での上演。博多は79年に2回目の上演をした地で、その後も天神
地下街のイベントなどで、毎年何度も訪れていた。友人達がやっている行きつけの店も出来、そこで飲みながら話す中で「いつか能の
舞台でやりたいと思っているんだ」と言ったのがきっかけで、友人の一人が中心になって住吉神社に話をつけてくれ、夢だった能舞台
で上演できる事になった。格式を重んじる能舞台は、まず能楽以外のものが使わせて頂ける事はなく、「出来ることになったよ」と連絡
をもらった時には正直なところ信じられないような気持ちでした。
 
 この能舞台は相当古いもので、境内の野外に作られた舞台だったのに後から屋根や壁で覆ったそうだ。
松葉目にも歴史を感じさせられ、また舞台はまるで鏡のように磨き抜かれ黒光りがする美しさであった。下見に行った時に案内して下
さった高齢の女性が、長年舞台を守って来られたそうで、毎朝必ず、牛乳を染みこませた布で磨き上げておられたのだ。
舞台に立つとくっきりと自分の姿が板に映るのです。ご自分が立つこともないのに宝物のように愛着を持って大事に守ってこられた舞台、
いい加減な気持ちで立っては申し訳が立たない、舞台当日はそんな思いで本番を迎えました。

 公演の日は真夏の8月、それもきれいに晴れ上がった暑い日だったと思います。夕刻、まだ明るいうちの開演だったのですが、会場
には冷房がなく客席のあちこちに氷の柱をおいて扇風機で冷風を送って見て頂きました。建物も普通の木造建築で防音の設備は当然
無い訳です。上演中には救急車のサイレンが聞こえたり、神社で飼っている犬の鳴き声が聞こえたりと、今の劇場の設備になれてしま
っていると何かと気になる条件だったのだが、そのときはそれらの音や暑さも気にならず、すべてが自然に解け合った舞台でした。
能舞台で演じる事で自分のマイムは大きく変わりました。この時出来なかったら今こうして能舞台で演じる事もなかったかもしれません。
  その後に各地の能舞台で演じさせて頂けるようになったのは、住吉さんでやらせてもらったのなら、と認めて下さったからです。
残念ながら福岡には最近は新しい能楽堂が出来たために、住吉さんの能舞台は現在ほとんど使われていないようです。
舞台を守っておられた女性も、もう亡くなられてしまった事でしょう。十年ほどになるでしょうか、久しぶりに住吉さんを訪ねた時は
人の気配がなく、窓越しに見た舞台は久しく使われていないようで、もう黒く輝いてはいませんでした。

これを書いていて気がつきました。今年(2009)の梅若の舞台で能舞台での上演も25周年になることを。



◆オランダ公演
       (1983/6)

 1983年6月、アムステルダムの有名なミルキーウェイで上演。ここはかつてミルク工場だったところを、ヒッピーたちが合法的に?
占拠して劇場に改装したのだそうだ。共同経営者のひとり、日本人の久慈さんに前年出会い実現した公演で、実に面白い体験でした。
前年は小学一年だった息子とまだ入学前の娘を連れてきたのだが、中ではあちこちでマリファナを吸っていたりして、小さな子連れの
日本人は彼らにはさぞ異常な客だったとおもいます。小さな運河を挟んだ向かいは何と中央警察、その警察の目の前で「マリワナ、
マリワナ」と客を誘っているのですからびっくり。もちろん私たちはやりませんでしたよ、念のため。

 さて、古い建物の中には大小様々な劇場があり、それぞれに演劇やら音楽やらダンスやら映画やらが同時進行していて、入場時に
手の甲に押されたスタンプがあれば、あとは一日出入り自由。 好きな時に好きなものがいくらでも見られるシステム。
黒人女性歌手の、心にずしんと来た歌声が未だに忘れられません。また三人だったか、マイムのような芝居も面白かったですね。
公演に来た年は久慈さんの家に下宿させて頂きいたのですが、そのときに矢張り下宿していた若いプロの自転車選手、
今はどうされているのだろうか。若者たちが夢に向かってひたむきに突っ走っていた、そんな時代だったように思います。

さてこの公演で忘れられないことが一つ。舞台を終えた翌日、とにかくほっとして公園をぶらぶらしていたときに、自転車の乗った若者が
追い抜きざまに振り返り、「やっぱり君だよね。夕べの舞台を観たよ。とてもよかった。」と言ってくれたのです。
嬉しかったですねえ。海外で演じるのは二回目、どう受け止められたか不安だったときの一言は本当に有り難かったです。
こんなふうにごく自然に声をかけてくれたことに、演じることと見る人が同じ目の高さで交歓できる。
構えずごく自然体で文化を楽しむヨーロッパの人たちの心の豊かさを感じたものです。
犬の糞だらけの道路、上からはまたカモメの糞が爆弾のように落ちてくる。昼間は生臭くて汚い街が、夜になると豆電球のイルミネー
ションでがらりと別世界に。きれいでしたね。これを書いていて無性に行きたくなりました。あのミルキーウェイはどうなったことか。
さぞ変わったことでしょうね、アムステルダムも。

さてこの年は長野で初めて公演したのだが、予想通りというか何というか大赤字を作る。父の故郷・長野は小さい時からよく連れて行かれ、
東京生まれの私にはちょっぴり田舎を感じる地であったことから公演を作ったのだが、矢張り集客は思うに任せず、しかも劇場の付帯
設備費がとんでもない金額になっていて愕然。最初にしっかり確認しなかった自分の落ち度だから仕方がないのだが、まさかこういう
計算になるとは言うことばかりで、今でもはっきり覚えているくらいのショックだった訳です。
県民会館が出来たばかりの時で、ロビーには分厚い絨毯と豪華なシャンデリアが備えられていて、この余計な装飾代が高額な備品費
になっているのだと、劇場に文句を言ったのは当然でしょう。当時はあちこちにこんな無駄遣いをした劇場が乱立していたのだ。
 この後しばらくはすっかり落ち込んでいたのですが、毎度のように「捨てる神有れば拾う神あり」で、この舞台を観て下さった女子校の
先生が、自分の高校の演劇鑑賞で是非取り上げたいと電話を下さり、経済的にも、精神的にも(経済的に救われれば精神的にも救われ
てしまう、私は至って単純です)救われました。この時から長いおつきあいをさせて頂き、その後には農村歌舞伎舞台での上演や、
東部町のマイムフェスティバルの実現へと繋がっていきました。瀬田先生、今も長野の高校で教壇に立っておられます。
どんなに無謀と言われても、まず自分から動かなければ何も始まらない、このときもその思いを痛切に感じました。
私のマイム生活40年はこの繰り返し、まだまだこれからもこんな生活が続くのでしょうか・・・。



◆初の海外公演                (1982/9)

 1982年9月、西ドイツのケルンで初めての海外公演が実現した。前年だったと思うがケルンからマイミストのミラン・
スラデク氏が来日公演を行った。その折に紹介して頂いた縁で氏の主催する国際マイムフェスティバル「道化'82」
に招待出演の話を頂いたのだ。
 私の師・佐々木博康先生も、一年後輩の並木孝雄氏も、多くの先輩達もヨーロッパにマイム修行に行く中で、私は自分も家も
経済的に苦しく、とても海外に勉強に行くなどということはできない状況だった。「マイムはやはり本場のフランスに行って
勉強しなければだめなのだろうか・・・」、そんな思いもあったが、生来の負けず嫌いで「自分は日本人、この日本で勉強して
日本人のマイムを創作し、いつか必ずヨーロッパの舞台に立ってやる」と思っていました。
その思いが実現したわけです。飛び上がるほどに嬉しい話でした。
早速交流基金に申請したところ、幸い渡航費の援助をもらうことが出来、一ヶ月をや家族とスタッフを兼ねて一緒に来てくれた
友人らとドイツに渡りました。そう、このときは何と漫画家の美内すずえさんも取材を兼ねてケルンに来られ、その時のことを
あの「ガラスの仮面」単行本の最後に書いてくれています。
 
 さてフェスティバル「道化’82」は当時おそらく世界で一番充実したマイムの祭典だったろう。
ヨーロッパの各地からマイムや一人芝居のような作品、インドネシアの舞踊劇、南米からはダンスマイムのような作品と、
世界中から集まった参加者がバラエティーに富んだ演目を一日に数作品ずつ、市内数箇所の劇場で上演するのだ。
私はまだ名もない東洋から来たマイミスト、果たしてお客さんが来てくれるだろうかと不安のうちに当日となった。
また、日本人の感覚で創った自分の作品をドイツの観客が理解してくれるだろうかという不安も大きかった。
高校の小さな講堂でサブ会場だったが、あけてみれば熱心な観客で満席、反応も良く翌日の新聞評には「小柄な日本人が、
大きな感動をもたらした」という好意的な評が載った。
主催者の一人から「私は『いのち』がとても良かった」と言ってもらったことが忘れられない。
自分の祖父が亡くなったときに創った作品で、物語があるわけでなし、淡々と静的な動きが続くだけの作品で、日本人でも
判らなかったという人が多く、きっとドイツのお客さんには判ってもらえないだろうと思っていたから、この一言がそのご自分が
マイムを続けていく上で大きな自信となった。
フェスティバルでは自ら演じたことが何より大きなことだったが、会期中、他のほとんど全ての作品を見歩き、日本では見たこと
がなかった様々な表現に出会えたことが何よりの収穫だったといえる。
後に何度も来日することになるスイスのディミトリーの至芸にも感動、イギリスのマイムには絶妙な味があり、私自身のマイムに
対する視野を広げてくれた。

 そしてこのフェスティバルでは忘れることができない出来事が一つ。ドイツのマイミスト、ロルフ・シャレが会期中に亡くなったことだ。
ミランスラデク氏がある日の舞台挨拶で「今日、我々の敬愛するロルフ・シャレさんが亡くなった」と客席に語りかけたのだ。
客席からは驚きと深いため息が起こったように記憶している。
 ロルフ・シャレは私がマイムを初めて間もない頃に来日し、私が初めて見た外国の、それも本格的なマイミストだったのだ。
マルソーが太陽なら月のような人、上下とも黒い質素な衣裳で、華やかさからはほど遠く、とても地味なマイムだったが、
誠実な人柄がにじみ出た温かで堅実な作風の作品を演じておられた。TV の世界に入ってしまう話や、日本の「羽衣」をマイムにした
作品が印象に残っている。

このときはフェスティバルが終わった後、家族共々オランダに行き、ヒッピーの造った劇場として名高かったあの『ミルキーウェイ』
で、日本人スタッフとして活動されていた久慈さんにお会いすることになる。翌年のミルキーウエイの舞台はこのときの出会いから
実現した。



◆横手公演  (1981/6)   7/7

 二回目の京都公演のすぐ後、6月には秋田県横手市民会館で公演。既にあちこちで書いた友人・故和賀敏雄君が
初演の舞台を見に来てくれたときに、終演後の打ち上げの席で「いつか必ず横手に呼ぶから」と言って帰ったのだが、
その約束を果たしてくれて実現した舞台だった。まだマイムなんて知る人がほとんどいない時代、しかも若造の舞台を
引き受けてくれるなんて半信半疑でいましたが、確かこの年の正月早々に「清水さん、やるぞ!」と電話が掛かって
きたのです。嬉しかったですねえ。このとき初めて「幻の蝶」を自分以外の人がプロデュースしてくれたのですから。
 和賀君の熱いエールはズーンと心に響きました。舞台の出来がどうだったか、それはもう覚えていないのですが、
和賀敏雄という同世代の理解者がいてくれる、ということがどれほどその後の活動の力になったことか。

 そしてこのときもう一人、私にとって大切な方が和賀君の後ろについていてくれたのです。
高橋繁樹さん、この数年前に秋田で初めて公演をしたときにお世話になっていたのです。東北電力に勤めながら地元の
劇団で中心メンバーとして精力的に活動をされていました。いきなり訪ねた面識のない私の公演を色々手助けしてくれて、
また劇団でマイムのワークショップを開いてくれたりと、物心両面で力になって下さいました。和賀君はその高橋さんに
かわいがらていたのです。東京まで和賀君が見に来てくれたのも、たぶん高橋さんから私のことを聞いていたからでしょう。
「繁樹さん」と若い人たちに慕われていましたが、本物の芝居馬鹿といえる方なのです。私の母と同い年ということで85歳、
今なお現役で役者として舞台に立っておられます。仕事の上での出世はもとより望まないと、定年まで「好きな芝居を続ける
ために仕事をしているんだと」公言して憚らない人でした。誰もがモーレツ社員として働くことがすべてという時代に、5時に
なるとさっさと仕事を切り上げて芝居人間に変わってしまう。それは見事に潔い人で、私はそんな高橋さんが大好きで秋田に
行くたびに連絡して、芝居談義に熱中したものです。
 和賀君が先立ってしまったときにはそれは寂しそうで、このままがっくり老け込んでしまうかなと思ったのですが、いやいや
その後も芝居に明け暮れておられます。私が府中に住んでいたときに、スタジオで高橋さんに来て頂いて一人芝居をして
もらったのも懐かしい思い出です。その時には和賀君がスタッフとして一緒に来てくれたのでした。
 翌年4月の仙台公演は繁樹さんとモダンダンスの森谷紀久子さんに大変お世話になった。
その森谷さんには、西武百貨店にあったスタジオ200で行われた森谷さんのダンス公演にゲストで出演させていただき、
貴重な経験をすることができた。 
 30年の間に「幻の蝶」はこういう素晴らしい人達との出会いを沢山作ってくれました。




◆二度目の京都公演     (1981年)       12/31

 大失敗の京都初演から一年、意地の再演だったように思う。でも初回に観て下さった数少ない
お客様が友人知人を誘って下さり、200人を超える動員となった。いろいろな人に言われていたのだが、
京都人は初めての人にもとても人当たりが良く接してくれる。私の初回もそうだったのだが、実はそうして
相手が本気かどうか見極めているところがあり、受けた印象とは違って実際には殆ど何も手助けして
貰えなかった。ところがこちらが本気だと判って貰えたこの二回目はまるで変わって、口伝てに声を掛けて
下さって、期待以上のお客様が見に来て下さったのだ。
 以来京都では講習会やら公演やらと毎年のように、いや時には年に何回も訪れる事になった。
この頃の講習会では未だにお付き合いのある方が沢山いる。毎年「幻の蝶」東京公演に駆けつけて下さる
西野さんもその一人。当時は確か関学の学生さんだったと思う。こうして30年近く経っても観ていただける
事は、何にもまして私には嬉しく有り難いことであり、同時に何よりの励みとなっている。
もう何年も京都公演をしていない。そろそろ又京都で公演をしたいものだ。

◆京都・尼崎公演        (1980年)       11/5

 二年目は京都と尼崎公演から始まった。京都、尼崎それぞれに400人以上入る劇場。
それでも京都は其れまでにも小さな公演をしたりと多少の繋がりもあったのだが、
尼崎は皆無。とても採算が見込めるような条件ではなかった。
例によって人の伝手だよりという向こう見ずな公演で、案の定悲惨な結果となった。
それぞれ400人以上の定員なのに京都は60人、尼崎に至っては40人にも満たなかったと思う。
大赤字も大赤字、スタッフを連れていたものの帰りの交通費にも窮するような状態だった。
さすがにスタッフからも企画自体の見通しの甘さを指摘され、結果を目の当たりにしては
弁解の余地もない状況であった。

でもこれがその後に京都や大阪で活動をしていく切っ掛けになったのだから、何が功を
奏するか判らないものである。この公演で京都での講習会が出来るようになり、上海太郎さん
、金谷暢雄さん、そして藤井伝三(F伝三)さん等との出会いに繋がったのだ。
それにしても手伝ってくれるスタッフに多大な迷惑を掛けるのは矢張り良い事ではない。
以降は少し慎重になったように思うのだが、そう思っていたのは自分だけかも知れない。

毎年1回の東京公演を続けてきたと言っているが、実はこの年だけ公演をしていないのだ。
前年の12月に池袋での公演があった為にとうとう出来なかった。
ほぼ年に一度という事になり、今になるとちょっと残念。



◆パモス青芸館 (1979/12 池袋・パモス青芸館)    10/20

 一年間で八回目、東京・池袋にあったパモス青芸館という小劇場でこの年最期の公演を行った。
よくもまあ八回も、とその時の自分の狂いようは今の自分にはとても理解できない。
北海道は小さな空間だったが、福岡、盛岡と大きな劇場での舞台が続き、その大きさに精一杯対抗
してきたような時だったので、小さな空間でホッとしたかったのだろうと思う。
でも、期待に反して何とも窮屈に感じたのを覚えている。
客席も後ろの方になると前の人の頭で腰ぐらいまでしか見えなくて見づらかったという意見が多く、
小劇場でやる場合の注意すべき事を多々勉強した舞台になった。以来小空間で小作品をやるときには
まずは足元まで見える事を第一の条件にしているのだが、日本の劇場はどうもその辺りの事を考えて
作られていないものが多いのはどうした訳だろうか。
劇場の設計者や依頼者が舞台表現に精通していない人が多いのだろう。そうとしか思えない。

それはそうと、確かこの時の舞台を多摩芸術大学の学生さん達が卒業制作として撮影してくれ、
フィルムになっているはず。いずれDVDに起こしてみよう。

◆北海道公演   (1979/10 北海道・札幌 こぐま座)    9/24

 このページを書き始めて改めて自分が如何に無鉄砲だったかを思う。
熱い想いで初演の舞台を終え、その想いは冷えるどころか益々燃えさかっていたのですね。
周りはどんなに迷惑だったことかと、今にして思えば冷や汗たらり、背筋がぞくっとするような感じです。
“若気の至り”とはいえ、さぞかし皆さんに迷惑を掛けたり、顰蹙ものの事をしたことでしょうね。
今更ですがその節は本当にお世話になりました。

 さて札幌の会場は円山公園の中にある人形劇用の劇場・こぐま座。
100人も入ったか、小さな小屋でしたが、其れだけに客席との一体感が感じられるとてもやり易い小屋だった
ように記憶しています。
何で札幌でやる事にしたのか、実は覚えていないのですねぇ。やはり沢山の方にお世話になったはず
なのに恥ずかしい事です。福生に住んでいたときの友人が苫小牧出身で、その同居人だった人が作品
の衣装を担当してくれた近藤順子さん。「マロード」のお客さんだった今井保行さんが江別、劇団の友人も
札幌にいたように思うので、そんな方々を頼りに突っ走ってしまったのでしょう。
また当時は結構イベントの仕事も多くて、札幌にも何回か行っていたように思いますからその伝手も
頼った事でしょう。こうして思い出そうとすると、何と自分勝手に動いていたかが判ってきて恥ずかしい限りです。
周りが何も見えていなかったという事です。

さて、この公演での最大の思い出といえば「リンゴ」。何かにも書いたし、またよく言ってきた事なので
ご存じの方もいるでしょう。
確か終演後の打ち上げの席で、「秋の日の想い出」の中で少年が柿を盗む場面について、あるお客さんが
「そうそう、私も良くやったのでとても懐かしかった。ああして取って食べたリンゴの味は忘れられない」
といわれたのです。リンゴを民家の塀越しに盗むんて思いも寄ぬ事だったのでビックリしたのですが、
北海道には柿が無くて、皆リンゴで同じような事をしたんだとか。
他所の家の木に手を伸ばしてそっと盗るのはリンゴなんだそうです。

この話を漫画家の美内すずえさんが覚えていおられ、先日の対談の時にもその話になりました。
「観客は自らの記憶で舞台を見ている」という事なのです。観客ばかりではなく作品を作り演じる我々も
、記憶(様々な)によって作品を創作し、演技をしている事になるといって良いでしょう。
我々人間の行動は記憶(経験)によって決められて、まるで経験のない事は何が何だかさっぱり判ら
ない訳です。意識上か意識下を問わず、我々は作品や演技を通して、観客の記憶を如何に刺激して
いくかを考えなくてはいけない訳ですね。想像力も記憶の産物と言えるのではないでしょうか。



◆福岡・盛岡へ  (1979/3 福岡・博多 大博多ホール  4 岩手・盛岡 盛岡県民会館)   6/21
 
 東京公演を終えて心身ともに虚脱状態に陥ったが、3月には福岡、4月には盛岡での公演が控えていた。
今にして思えば何と無謀な計画を立てたことだろうと呆れるばかりだが、何も判らないというのは恐ろしい。
どう準備して、どうお客様を集めたのか、記憶はもう遠く定かではないのだが、とにかく友人、知人、
そのまた友人と、がむしゃらに人の伝手を頼って公演に漕ぎ着けたことは確かだ。

 私がマイムを始めた頃はまだパントマイム自体が今のように知られていなくて、そのことでの苦労も
あったが、珍しさから特をしたことの方が多かったと思う。
 マイムを始めて10年が過ぎていたこの頃は、景気も上昇期でイベントの仕事も多く、街角で人形振り
(白塗りのピエロのメイクでマネキンのようにじっと立っているあれです)やら、街頭パフォーマンスやらで
結構仕事があり、何とかマイム一本で生活が成り立つ状況だった。
今のように優秀な同業者が沢山いては私などとても駄目だっただろうが、その当時は東京のみならず
各地から声を掛けていただき、西へ東へと結構忙しかった。
その中でいろいろな所に知り合いが出来、その人達が後に各地で公演をする際に大きな力を貸してくれることになった。
 
 福岡・博多は天神地下街という日本の数ある地下街でも独特の雰囲気を持つ地下街で、
ヨーロッパ調の街路が外国の町並みを思わせ、その街路にあったイベントをと言うことから、私は
オープン以来30年、実はつい3年ほど前まで毎年暮れになると天神の街角にピエロで立っていたのです。
私がここ十年以上の間でピエロをやっったのはここだけ、密かな私の楽しみでした。
これを知っていたのは博多の人達だけという訳です。

さて、私にはちょうど自分のマイム生活と平行してこの地下街の仕事があり、他の仕事とは違う愛着が
ありました。そしてこの地下街では本当に沢山の素晴らしい人達と出会いました。
そこで出会った方々が私の初めての地方での公演を支えてくれた訳です。
大博多ホールという400人くらいの規模だったでしょうか、あのときは何人くらいの方が見に来て下さった
のかもう覚えていませんが、出来上がったチラシやポスターを詰め込んだ重い鞄を引きずるようにして、
吹雪が舞う博多駅のプラットホームに降り立った時のことは今も鮮明に覚えています。
博多ではこの公演のあとも様々な舞台や仕事があり、田舎のない私にはふるさとのような懐かしさを
覚える街になりました。

そして盛岡。もう博多の舞台の一ヶ月後ですから本当にどうやって準備をしたのでしょうか。
これもその数年前、東京の知人の伝手を頼りに初対面の方の家を訪ね、そのまま一月近く三食付きで
しかも、と言うか勿論というかただで泊めて貰いながら、盛岡や遠野、秋田などで公演をしたのです。
盛岡の公演もその時に助けてくれた人達が中心になって手伝ってくれて実現したものです。
いやはや若気の至りです。思い出すとその図々しさに赤面の思いです。
そして盛岡も博多と同じく私には特別の思いがある地になりました。
 
 その時に留めて下さったお母さんは、お元気であれば90才くらいになられるでしょうか。
後年、その地を尋ねたときには家が区画整理で無くなっていて、お目に掛かれないまま今になって
しまいました。「人間食べ過ぎて死ぬことはないよ」と言って次から次にご飯をよそって頂いたのが懐かしい。
照明を担当してくれた人達には、金もなく、お客様も思うように集められなかった私たちを見かねて、
公演当日の劇場の裏で「イモの子汁」を作って食べさせて頂いたのでした。
これには今も思い出す度に涙が滲んできます。
そんな人々の暖かさが、私がマイムを続けていく上でどれほど大きな励ましになったことか。

 私の「幻の蝶」の歴史は今更ではありますけれど、人との出会いの歴史であったといえるでしょう。
力を貸して下さった多くの方々へ何も恩返しが出来ないままに今日になっています。
何年もご無沙汰したままになっている人も数知れません。
元気に舞台に立てる限りは精一杯心を込めて演じること、そして出来るだけ長く演じ続けることが
みなさんへの恩返しだと思っています。 




◆初演時のこと sono2  (1979/1 東京・水道橋 労音会館ホール)   5/25
 
 初めての大舞台、と言っても400人でしたが、それまで殆どの舞台が4〜50人の小さな空間。
たまに大きな舞台に立つことはあってもこの時の「幻の蝶」は思い入れが違う。
準備の段階から次第に公演が近づくに連れてプレッシャーが増してくる。
 お客様は来てくれるだろうか? 作品が仕上がるだろうか? 見てくれた評価はどうだろう?
数週間前から胃がキリキリと痛み出し、我慢できなくなって医者に診て貰うと十二指腸潰瘍
だという診断。まさに精神的な重圧から十二指腸に傷が出来てしまったのだ。

 さて、そんな状態になっても否応なく公演日が来てしまい幕が開く。客席にはかなりのお客さんが。
とにかく気合いが入っていたので一気に一部が終わる。初演時は今より作品の数が2本多くて一部、
二部とも5作品ずつの構成で、一部の終了時で既に一時間ちょっとが過ぎていた。 
休憩に出てきたお客さんから「まだ半分なのか」という声があったと聞く。
今にして思えば、初めてパントマイムを見るお客さんが殆どで、無言で繰り広げられる一時間強の
舞台はさぞ疲れたことだろう。 しかも初心者で拙い演技の上にやたら気合いが入っているのでは
お客様にはたまったものではなかったと思う。

 でも演じる私は知ったことではない。後半もじっくりたっぷり演じてまさに自己満足に浸った初公演
となった。客席には三木のり平さん、村松英子さん、財津一郎さんなどが来ておられたと聞いたように
記憶しているが、果たして本当だったのだろうか。
公演があることは新聞でも大きく取り上げて紹介されて、自分の予想を遙かに超えるお客様が来て下さったのだ。
 その中にMumbo Jumboに書いた横手の和賀敏雄君もいたのである。打ち上げの様子は今でも鮮明に残っている。
終わってしまえばお客様の評価などもうどうでも良くなり、打ち上げの時には「この作品はライフワークとしてずーっと
続けていきたい」と大見得を切っていた。まさかそれから30年、本当に続けているとは勿論思いも寄らないことだったが。

 公演が終わったあとは残務整理も大変だったが、とにかく全力の舞台だったのと、胃に穴が空く程の
精神的な疲労とで一週間の間何も出来ず、死んだように倒れていたのだった。
 今の方が格段に体力が衰えているはずなのに、公演の翌日も平気で教えに行ったり、舞台に立ったりしている
のだから、精神的に余程図太くなっているのだろうか。いや、それもあろうが漸く余計な力を入れずに舞台に立てる
ようになったのだと思う。
10年ほど前に、照明をして下さっていた辻本晴彦さんが、「清水さん、最近力が抜けて楽に見ることが出来るように
なったよ」と言って下さったのが何より嬉しかったことを覚えている。

 私に力が入っているとお客様も力が入ってしまう。力を抜んだと判っていても難しい。
漸くこの歳になって力を抜いてフワッと舞台に立つ感じが判るようになった。
これからますます舞台を楽しめそうな気がする。

                                        Mumbo Jumbo


◆「マロード」         5/11

 「幻の蝶」を初演する前の数年、原宿に「まろーど」という小さなライブの出来る店があり、
ここで毎月仲間数人と「マイムロード」という小公演を続けていた。二月に一度新作を発表し、
間の月は同じ作品を演じるという物だった。二ヶ月ごとの新作作りはなかなかに辛い仕事だったが、
とにかく日も決まっていて逃げられない。
 でもこの「マイムロード」があったからこそ「幻の蝶」の諸作品が生まれたのだ。
苦し紛れでも作品をひねり出す、若いときも今も舞台を続けていくうえで大切なことだ。
時間や精神的に余裕が無いから作品が出来ない、というのは逃げ口上。
私はむしろ時間や経済的、或いは精神的に余裕のない時の方が作品が生まれる。
他人に「アーティストはハングリーじゃないと行けない」なんて言われるのは御免だが、
矢張りそういう部分はあるようだ。

 さて、この「マロード」のご主人は目が不自由な人だった。全盲で歌が上手くて自分で作曲した曲を
「ギター」で弾き語りをしていた。私たちがマイムをするときに音響室が舞台の裏にあって、舞台上の
動きを見ることが出来ず、どうしようかと言っていた時になんとこのマスター・樋口さんが音響をやるよ、
というではないか。 「だって目が見えないのにどうして」と半信半疑でいた私たちがビックリしたのは
その樋口さんの音を入れるタイミングがぴたっとはまること。
「何で?」という我々に彼はこともなげに「判るんだよ、見えなくたって」と。
呼吸のようなものを感じるんだと言っていたけれど、今思い出してもすごかったなあ。

さてその彼は暫くして原宿の店を閉め、故郷の札幌に帰って矢張り「マロ−ド」というお店をやっている、
と聞いたけれど私は行く機会がないままである。今もお元気かなあ。

 この時に創った私の作品で特に思い出に残っているのが「いのち」だ。ちょうどこの「マイムロード」の
新作を創らなければならないときに、私を特に可愛がってくれた祖父が亡くなり、その前後数週間は何も
手に着かず、勿論新作なんて出来ないままに時間が過ぎ公演の日が迫った。 
でもやらなくてはならない。この時初めて、誰にも判って貰えなくても良い祖父の鎮魂の作品を、
と思って創ったのが「いのち」なのです。生前の祖父の仕草、祖父と夏に遊んだ花火、とても穏やかに
息を引き取った最後の顔、そんなことをそのまま作品にしたのです。
でも不思議なもので誰にも判って貰えなくてもと思って創った作品を、後にドイツのケルンで初めて
海外公演をしたときに見てくれた人が、「『いのち』が一番心に響いた」と言ってくれたのです。

私のマイムに対する姿勢がハッキリしたのはこの時のこの言葉だったかも知れません。
「何よりも自分の想いを大切にして創る」ということを。

 そう、この「マロード」では今井保行さんという詩人、童話作家との出逢いがあったのも大きな出来事
でした。 後年、大好きな今井さんの作品『雪まろげ』をマイムにさせていただきました。
「まいむ民話」の中の作品です。そういえば今井さんも北海道・札幌に近い江別にお住まいです。




◆初演時のこと  (1979/1  東京・水道橋 労音会館ホール)      5/2

 マイムを始めて10年が過ぎた頃、小さなこども達を抱え生活もままならない状況のなか、
なおこの道で生きていくのか、それとも諦めて別の仕事に就くか迷いの日々を送っていた。
自分に才能があるかどうかなんて当然判らない。ただパントマイムにだけは不思議に素直に
のめり込めた。パントマイムを失ったら自分には何が残るだろう、そう考えたとき改めて、パントマイム
こそが自分にとって生涯追い続ける対象なんだとハッキリとしたものになった。
 ならば、今ある全てをぶつけて舞台を作ろう、そう決心して作った作品がこの「幻の蝶」でした。
それまでに作った作品の中から自分が好きな10本を選び出し、その中の一つ「幻の蝶」をタイトルにして
この舞台が生まれたのです。(ちなみに現在は8本で構成しています。)

 それまではマルセル・マルソーは別として、我々日本のパントマイムは小さな空間で演じるられるのが
常だった。 勿論私も100人が大きい方という、殆どは数十人の小空間で演じてきていたのだが、
この「幻の蝶」はどうしても大きい空間で、照明も、音楽も衣装も全てきっちりから作り上げた舞台にしたい
という想いがあった。 当然今までとは桁違いの制作費がかかる。 しかも何百人ものお客様を呼べる自信
もない。でも、ここは一か八か、賭けるしかないと思い公演に踏み切ることになった。

 音楽は高校時代の友人で、既にプロとして活動していた作曲家・はらまさみ君
に依頼、プロの音楽家を頼みスタジオで録音することになる。
衣装は当時住んでいた福生の家の隣に、たまたま衣装をやっている女性
(近藤順子さん)がいて引き受けてくれた。照明はマイムを始めた当初からの
友人・三浦安雄さん、音響は安良岡 守さん、舞台監督が大門弘児氏という
スタッフ。タイトルは大田 門さん。
そして何と、ポスターやチラシ、チケット、パンフレットのデザイン一切は、
今や絵本の世界では知る人ぞ知る鈴木康司さんであった。
(左が鈴木康司さんの手による初演時のチラシ、私の宝物です。)
私としては大袈裟でも何でもなく、この舞台が自分のマイム生活のスタート
だったと思っています。

当時のパンフレットに書いた言葉です。
「いつも『語りかける』という気持を大事にして、見て下さった貴方が、いつかまたあの作品を
見てみたい、と思っていただける舞台を作ること、これが私の心することです。
そしてこの公演は、まさに長い〈まいむろーど〉への旅立ちなのです」
30年が過ぎた今もこの想いは少しも変わらないばかりか、なお一層強くなっていることに小さな喜びを感じます。  

左の詩は 当時良く一緒に仕事をさせていただいた須永博士さんが
パンフレットに寄せて下さったもの。




2022年に初演、43年目を迎えます。




     

1979年1月26日初演〜2022年へ

幻の蝶