「幻の蝶」と並ぶ清水きよしの代表作「KAMEN」は、1983年12月に渋谷ラ・ママで初演し、
以降ライフワークの一つとして国内外で公演を重ね、これまでに175回の上演数を数える。
当初は和紙で製作したマスクを使用していたが、1994年1月の労音会館R'sアートコートでの公演から
創作面作家・ふじもりふじお氏の手になる創作面を使用し現在に至る。
2010年には韓国(仁川)と香港で上演し好評を博す。
 
動きにつれて千変万化の表情を見せる能の伝統的な製作技法による陰と陽の創作二面。
無表情の代名詞のように言われる能面は、実は観る者に豊かな表情を想像させてくれるのです。

日常に潜む不安、不条理に押しつぶされる哀しみと怒り、知らず知らずに犯してしまう行為の愚かさ。
我々の心に沈殿する闇を見つめた六本の作品からは、「幻の蝶」などの作品群とは又違うマイムの面白さを
感じて頂けると思います。

    ◆作・演出・出演:清水きよし    ◆音楽:うえの善巳    ◆創作面:ふじもりふじお

         ◆ 照明:立川直也・満平舎  ◆舞台監督:木川達也   ◆衣装:中川雅子  ◆帽子:香山まりこ



■プログラム


   Ⅰ マリオネット  
       蝶と戯れるマリオネット、後を追うのだが...

   Ⅱ 鍵         
       扉の奥のその奥へ、いくつも鍵を掛けていくが...

   Ⅲ 綱渡り   
       意気揚々と綱渡り、ところが...

   Ⅳ 花       
       美しい花に恋した男、恋の行き着くところは...

   Ⅴ 駝鳥     
       高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」より

   Ⅵ 背中が痒い  
       とってもとっても、かゆ~い話

 



■仮面の演技について  

その1: 限られた視野
 両の手の親指のつけ根に人差し指の先をつけて小さな円を作り、眼鏡を掛けるように両目にあててみて下さい。
さて、その小さな穴から空間、それが仮面の目を通して見える空間です。
 上下左右、視野は極端に狭められ、ごく限られた空間しか見ることが出来ません。
慣れないうちは距離や方向の感覚が覚束なく、バランス感覚も狂い、身体が不安定になることで精神的にもバランスを失うのです。
 暗い舞台だと、ただ立っていることさえ安定感がなくなり、動くうちにどちらが正面かも判らなくなることがあるのです。
舞台のどの位置にいるのか不安になり、足元をつい自分の目で確かめようとしようものなら、面は只の被り物と化してしまうか、
芝居の流れとは関係ない表情を出してしまいます。 至って見えにくい、しかし限られているけれど見える。
この制限され抑圧されていることが、面をいきいきと生かす工夫を生み出し、演者に面を使うことの面白み、醍醐味を与えてくれるのです。

その2: 何故、能面は顔よりも小さいのか
 ヨーロッパの仮面もアジアの仮面も、その殆どが人の顔より大きく作られています。
その中で唯一といっても良い例外が日本の能面なのです。
 それでは何故、能面は顔より小さくなっているのでしょうか。それは根本的に仮面を着ける事に対する考え方が異なるからです。
 
 恐らく殆どの仮面は人間ばかりではなく、神であったり悪霊であったり、また精霊であったりと自分以外の何者かに変身する為に用いるので、
当然、着けている人の生身の顔が見えては都合が悪いのです。自分自身を仮面の裏に隠してしまう事が目的だから、
見ている人に誰それが着けているんだと判らないようなものでなければならない訳です。
私の見知った限りでは、イタリアのコメディア・デ・ラルテの仮面はハーフマスクなど顔より小さいものもあります。
しかしコメディア・デ・ラルテの場合は役のキャラクターを強調する為のものであり、能面とは意味合いが異なる様に思います。
他にも韓国のお面にも顔の大きさと同じような小さなものがありますが、こちらも能面とは使い方が違うように思います。

 それでは能面はどうでしょう。
私はマイム役者として能面と向き合ってきた経験でしか判りませんので、何かと見当違いがあるかも知れないことを
まずお断りしなければいけません。私の僅かな経験の中で感じたことは、能面はそれを着けることで何者かに変身する為にあるのではなく、面と自らの肉体と心を対峙させることにあるのだと思うのです。
 
 能面といっても初期の頃の素朴なものからは、世阿弥の夢幻能の完成と歩をひとつにして作られた女面のように、
実に繊細で微妙な表情を持つものまで様々です。従って一言では言えませんが、初期の頃の神様や鬼の面はさておき、
特に女面は単にキャラクターを表しているのではなく、その人物の置かれた状況がそれぞれの表情として凝縮されたものであるように思えます。

 能では、能面は演じる作品によって決められているのではなく、役者がその時々の思いで自由に選ぶことが出来るそうです。
ですから同じ作品でも、時には明るい印象の面を使ったり、あるときは愁いを帯びた面で演じたりと、演じる人のその時々の意図によって使い分けるのです。当然同じ作品でも舞台の印象は面によって大きく変わってくるでしょう。
能役者は面を選ぶ時点でその時に演じようとする方向を定めることになります。
無表情の代名詞のように言われる能面ですが、実はとても強い意志と表情を持っているのです。
従って既に面に込められた意志と役者は戦わなければなりません。
生半可な使い方をすれば面はたちどころに生気を失いただの物と化してしまいますし、また役者の意志とは異なる表情を見せてしまうのです。
仮面に命を通わし生かすことが出来るか否かが常に問われる訳です。
その葛藤に中で何時しか面が役者の顔となり生き生きとした表情を見せるようになるのです。 

能面が人の顔よりも小さいのは、あくまでも誰それという人間が着けているということを観客に意識させると同時に、
その役者自身が面を着けていることを否応なく意識させられることにあるように思います。
役者自身がその違和感を乗り越えた時、当初は違和感を覚えていた観客も、何時しか仮面の周辺に見える役者の生身の顔が仮面と一つに溶け合い、やがて仮面の人物そのものとして受け止め舞台に集中していくのです。

さて、私はこの作品で陰と陽の二面を使い6本の作品を演じています。6本全てそれぞれ違う登場人物ですが面は二面です。
この二面が作品によって自然にそれぞれの人物として違和感なくお客様に受け止めて貰えるようにしなければいならないのです。それは私には一生掛けても足りない大仕事です。そのためにはやはり舞台を重ねていくしかありません。
観阿弥・世阿弥から600年の歳月を重ねて磨き上げられ深められてきた能の仮面の演技に対して、
私の仮面マイムはたかだか四半世紀の経験です。とてもとても偉そうなことは言えません。
でも工夫を重ねて演じ続けていくなかで、そこから私なりの手応えを得られたらと思います。
そのような面に何時までも尽きない興味を覚えるのです。

その3: 「離見の見」
 私の座右の書は「世阿弥」の著作といって良いでしょう。仮面で演じるようになって尚更です。
 ご存じ世阿弥は今からおよそ600年前に父の観阿弥と共に、現在に伝えられる能というジャンルを築いた人。
多くの優れた作品と共に演技論などの著作も多数残しました。
 著作の中で世阿弥は幾つもの名言を残しました。よく使われる「初心忘るべからず」という言葉も世阿弥によるものです。
これは役者として経験を重ねていく上での大切な心構えを説いた言葉ですが、今はどうも違った意味合いに使われることが多いようです。

 さてこの「離見の見」という言葉もそのひとつ。
これは能役者ばかりではなく、全ての演技者や表現活動に携わる者にとって大切な意味を含んだ言葉ではないでしょうか。
 気持ちを入れて演じているとつい自己陶酔のような状況に陥りがちです。
また役の人物になりきるのだから、そこに冷めた意識があってはならないという考え方もあります。
私も以前はそのように演じていました。でも仮面を使うようになって大きく変わりました。
 役に没入してしまうと仮面が死んでしまうのです。仮面の裏にいる生身の自分が表に出てしまい、肝心の仮面はただの物と化してしまう。
 仮面の演技を考える上で最も大切なことは、仮面に命を吹き込むことです。
そのためには常に自分自身を離れて見ることが出来るもう一つの眼を持こと、つまり「離見の見」なのです。
そういう冷静な眼で自らの演技を意識してはじめて仮面が生きて立ち現れてくるのです。

その4 :生身の身体を消すこと
 自分の顔よりも小さな仮面、その手のひらほどの小さな空間に幽閉されたような感覚。美しい仮面には強烈な磁力が働いていて、仮面を着ける時、彫り刻まれた仮面の裏に心が吸い込まれていく様に感じます。
この作品では、舞台上で二つの仮面を替えながら演じるので、作品毎に面に吸い込まれ、解放されることを繰り返しているわけです。
 生身の顔を隠すことで羞恥心が消えるのではと思われるかも知れませんが、実は作品に入るまでは、むしろ身体が無防備状態になってしまったように感じ、とても心許なくなるのです。そして着け終え演技に入った瞬間に、空っぽになった身体は、再び面から還流してくるエネルギーが満ち、初めて面と我が身が一体となるのです。

仮面の演技は当然肉体の動きからなりますが、演技者の肉体の動きそのものを見せることではないのです。
むしろ演技者の生身の肉体を一度消してしまうと言ったらよいでしょうか。
その上で改めて仮面が私の身体と融け合い、生き生きとした表情が現出されるのです。
生身の身体を消すということは、実は仮面を使わないで演じる場合も同じなのだが、仮面を着けた時には殊更に意識させられるのです。

その5 「体心捨力」
今回も世阿弥の言葉から仮面の演技について考えてみたい。
「体心捨力」すなわち心を主体にして体の力を抜いて演じる。マイムを始めた時からの私の課題のひとつが、如何に力まずに演じるかにあった。
若い頃はいわゆる力演、気を抜かず最後まで全身で目一杯演じるのが大事なことだと信じていた。なのでひとつの舞台が終わるともうぐったりで、立ち上がる気力、体力も残っていないというような有様だった。
こんな舞台に付き合って下さったお客様も、おそらくぐったり疲れてお帰りになったことでしょう。
これではいけない、これでは単なる自己満足の世界ではないのかと、漸く気付いたのがもう40過ぎてからだったでしょうか。

特に仮面を付けて演じるこの作品では、力んで全力投球していては冷静に仮面を活かす演技は出来ないし、また仮面の微妙な表情の変化を表現するような動きのコントロールなどとてもできないのです。内面的な表現は、繊細な仮面の動かし方ひとつで決まる。そのためには常に柔軟な心でいなければならないし、柔軟な心でいるためには柔軟な身体でいなければならないのです。
柔軟な身体とは力を抜いた状態の身体です。力んだ身体は筋肉が収縮した状態という事で、身体は筋肉で締め付けられている訳です。
これではとても繊細で微妙な表現を生み出す身体の状態にはなりません。
世阿弥は「女体」、すなわち女を演じる時の心構えとしてこの言葉を言ったのですが、これは「女体」ばかりではなく、仮面の演技全般に通じることだと思うのです。如何に激しく力強く演じなければいけない時でも、身体には余計な力を入れず心を十二分に働かすこと。
心が自由に動けるような柔軟な身体でいるためには、身体の芯はきっちりととって、その芯を包む肉体は柔軟でいることです。

私は50も近くになって漸くその事が体感できるようになってきました。以来、仮面を着けていても冷静に自分自身を見られるようになり、また肉体的にもとても楽に演じることが出来るようになりました。
仮面を着けての演技は、着けずに演じる時の数倍の緊張とエネルギーがいるように感じられます。
でも「体心捨力」を心がけることで、今は昔のように精根尽き果てると言うこともなく、それでいて充分に心を込めて舞台を務められる様になってきたのではないかと自負しています。
身体に余裕が出来る事で心を十二分に動かせるようになったという事です。仮面の演技で学んだ大きな収穫と言えるでしょう。

その6: 「心の遊び」
 「遊び」「PLAY」にはスポーツやゲームの他に「芝居」「演技」という意味もあります。それからもうひとつ、「ゆとり」「余白」と言った意味合いも。
舞台では、演技者のちょっとした心の緊張や動揺、それは身体に現れてきます。動きにゆとりがなくなり、例えばバランスを崩す。
あるいは余分な力が入るなど、様々な現れ方をしてきます。
ましてや仮面を着けていると、視界が制限されるために方向感覚が怪しくなったり、バランスがとりにくくなるのです。心や身体に余裕のない状態で、なおそこに心や身体の動揺が加わればどうなるか。それはハンドルやブレーキに「遊び」のない車を運転するようなものです。
もしかしたらクシャミをひとつしただけで、車は右へ左へブレ、あるいは急停止したりと、場合によっては大きな事故に繋がる恐れもあります。

幸い舞台で命の危険を感じることはないにしても、作品にとっては命取りに成りかねません。
小さな出来事に影響されように、常に心に遊び(ゆとり)の部分を空けておき、冷静に自分を見ることが出来る状態でいる、これも仮面のマイムを演じる上で心掛けたい大切なことなのです。


その7:「動十分心 動七分身」
 世阿弥に「花鏡」と言う伝書がある。
これは息子・元雅に伝えた書と言われている。
この書には能役者としての心構えが記されており、中の"題目六箇条"の二条目にあるのがこの言葉だ。
恐らく日々の稽古の際に、お経のように唱えていたのでしょう。

 「心を十分に動かし、身は七分に動かす」ようにせよ、と言うことなのだが、体の動き一つで表現しなければならないマイムにはなかなかに難しい注文である。動かないというのは相当の自信が無ければ出来ないことで、つい動く事で伝えようとし、結果は体は動いていても心がしっかりと働いていない演技になり、お客様には何も伝わらないと言うことになる。

 特に仮面で演じる場合に、ただ体を動かしているだけては伝えたい想いは全く伝わらなくなるのです。
想いをしっかりと体内に醗酵させなければ仮面が生きてこない。常に留め置きたい心構えです。

その8:「能面のような」
『能面のような』表情というと、感情を表に表さず、冷徹で無表情な状態を指して言われる言い回しです。

さて、果たして能面は無表情でしょうか?其れはただ壁に掛けられた観賞用の能面しか知らない人の言葉です。
能面は無表情どころか、実に細やかで豊かな表情をうちに秘めているのです。
其れは演者の演技一つであたかも生きているかのように表情が現れてくるのです。
ですが演者が仮面の扱い方を誤ればただの物とか見えなくなってしまう。

物のはずの仮面に命を吹き込み、その無表情とも見える顔の裏にため込まれた溢れんばかりの感情を表に出すのが演技者としての醍醐味なのです。

ほんの少し面を上下に動かすだけでハッとするような表情が現れる。視線の向け方にしても当然一様ではないのです。面の角度、動きの間合い、遅速、溜・・・
もう微妙なさで、表情や感情の現れ方に際限も無い違いが生まれてくる。これをコントロールする難しさと奥深さ。
なぜならば実生活での私たちの表情や感情表現は一々計算して表に出す物ではなく、殆どがその瞬間に意識する前に現れ、そして瞬時に消えて意識に残らないからです。

自分の生身の表情や感情表現ではなく、その瞬間瞬間を生きる、仮面に宿る人格の表情であり、感情の表現でなければ行けないと言えましょう。
舞台ではそう思って十二分に気を引き締めてはいても、ふと気を緩め生の感情にまかせて動いてしまうことがある。すると仮面は瞬く間に顔につけているただの『物』と化していたり、時には演じている役としてのあるべき表情とは異なる表情が現れていたりするのですから、仮面の舞台では努々気持ちを抜いてはいられないのです。

仮面の演技に限ることではありませんが、いつまでたっても完璧と言うことはないのでしょう、きっと最後の最後まで。


その9: 「イメージの世界で遊ぶ」

 仮面を着けて演じる場合、視界が極端に限定されるために舞台空間での立ち位置や距離感が把握しづらいのです。何しろ両目の小さな穴から見るときは、実は片目を瞑って見ているような状態なので、身体のバランスを取るのも危うくなるし・・・。

 ところで我々の眼には効き目というのがあり、左右の視点がずれているのはご存知かと思います。
で、そのずれがあるので距離感を認識できるのだそうですがこれは知りませんでした。面白いですね。

 そこで仮面をつけたときはどうかと言えば、先ほど言いましたように片目は使っていない状態ですから、位置や距離感がつかめなくなるのです。
例えば「花」で、花を取ろうとしたときに、舞台のあそこにとイメージした花に近づこうとした時に、一度視線をずらしてしまうと花がどこにあるのか判らなくなって、見当はずれのところに向かったりしてしまう。

 日常、私たちは視野に入る全体との関係で位置や方向を把握し、体のバランスを取っているのだと思います。ところが仮面を着けていると全体を見ることが出来ないので苦労するのです。
このことを理解するまではすごく戸惑いました。

 そこで私がどのようにしているかと言えば、スクリーンに映した映像を見る様にイメージした想像の空間をひたすら見ているのです。舞台のどこどこにではなく、想像の原っぱにある花を見ているのです。
ちょっと経験しないと解りづらいでしょうね。
仮面を着けない演技の場合は現実の舞台空間と創造の空間をダブらせて見ているような感じですが、仮面の場合は極力現実の空間を意識しないようにしていると言ったらよいでしょうか。
まさに「イメージの世界で遊ぶ」そんな感じなのです。


■これまでの公演地

 国内各地:東京、大阪、京都、福岡、鹿児島、高知、兵庫、長野、愛知、山形、仙台、秋田、などで多数回上演。
 海外:アメリカ/ロスアンジェルス  韓国/チュンチョン、コンジュ、ソウル、仁川  インド/コルカタ 香港

   ※初演当初は紙製の面を使用し、あちこち気軽に行って上演していたので、今になると何時どこで公演したのか、
    正確なことは解らなくなってしまいました。海外も他でもやったと思うのですがあやふやです。
    従って上演回数も実は正確ではありません。
    ある時これではいけないなあ、と思っておよその数字からカウントを再開しました。ご了解下さい。



■アンケートから

 ◇静かな舞台ながら、心の大きく動く公演でした。又見たく思いました。(30代/男)

 ◇言葉を用いることなく情景を見事に表現するパントマイムの魅力を再発見したように思います。素晴らしかったです。
  指先まで全てが踊っている様は芸術です。フルートの美しい音色も素敵でした。(20代/男)

 ◇始めて観させて頂きました。 緊張感の中に やわらかな ほんのりした空気が流れて・・・
  KAMENの表情が、動きが、そう感じさせるのですね。素晴らしい・・・(女)

 ◇本当に仮面が人格を持って生きているようで、静かな空間に見入ってしまいました。(10代/女)

 ◇たくさん たくさん 笑わせていただきました。身体の動きとフルートの音色だけなのに 様々な情景を実感しました。
  表情の変わらない仮面なのに・・・たくさんの感情が伝わってきました。
  とても素敵な時間を過ごさせていただきました。(女)     
  



■香港公演のためのメッセージ
先方からKAMENについてのメッセージが欲しいと言うことで,翻訳ソフトの助けを借りて
以下のような文を送りました。

It is the following thing that I want to tell through the stage of KAMEN.
The basic intention when I created this work was to think about "freedom".

At first I express it without pantomime in itself using words and the tool.
It may be said that the pantomime is an expression method with the big limitation.
I arranged the limitation more on playing this work.
It means that I do not use the expression of the face in the thing using the mask either.
There was my aim while I assigned these limits how I could be free.
I took the long time of nearly 30 years and overcame this problem little by little.
I learned most about physical expression in the thing using the mask on the stage.
Having to always keep oneself on the stage calmly more.
As a result, I knew how the mask expressed a rich expression.
I want to have audiences watch it how my mask has a rich expression on this stage.

In addition, the theme of the work is consideration about the freedom in the same way, too.
We have much limitation in living.
We may not be usually conscious of the most.
They are social limitation, political limitation, economical limitation, physical limitation or psychological limitation.

The marionette drama that is handled with several threads.
The man who locks it in sequence without being able to consist of the uneasiness of the heart freely.
The man who is restricted in a beloved thing.
The life that it needs on one rope.
The ostrich is shut in to the cage of the zoo,
The people are tormented before unreasonable violence.

Can the human being live in a state of freedom restricted in nothing?
How can we keep the freedom of the heart in various restraint without losing oneself?
I think about such a thing through a work of this KAMEN.

KAMENの舞台を通して私がお伝えしたいことは次のようなことです。
この作品を創作した時の基本的な意図は「自由」について考えることでした。

まずパントマイム自体が言葉や道具を使わずに表現します。
パントマイムは大きな制約を持った表現方法であると言えます。
私はこの作品を演じるにあたってさらに制約を設けました。
仮面を使用する事で顔の表情をも使わないということです。
私の目標は、これらの制限を課した中で私はいかに自由であり得るかにありました。
私は30年近くの長い時間を掛けて,少しずつこの課題を克服してきました。
私は舞台で仮面を使用する事により、身体表現について多くのことを学びました。
さらに舞台上で常に冷静に自分を保たなくてはいけないということを。
その結果、仮面はいかに豊かな表情を表出するかを知りました。
今回の舞台で観客の皆さんには、私の仮面がいかに豊かな表情を持つかを見て頂きたいと思います。

又作品のテーマも同じように自由についての考察です。
私達は生きて行く上で多くの制約を受けています。
その殆どを我々は普段は意識しないかも知れませんが。
それらは社会的な制約、政治的な制約、経済的な制約、肉体的な制約、あるいは心理的な制約などです。

何本もの糸で操られるマリオネット。
心の不安から自由になれずに次々に鍵を掛けていく男。
愛する事で縛られてしまう男。
一本のロープの上にいるような人生。
駝鳥は動物園の檻に閉じ込められ、
人々は理不尽な暴力の前に苦しめられる。

人間は何事にも束縛されない自由の状態で生きることが出来るのか。
私達は様々な束縛の中にあっても、いかに自分自身を失わず心の自由を保つことが出来るか。
私はこのKAMENという作品を通して、この様なことを考えています。


■KAMENを支えてくれている方々のこと

★うえの善巳さん
まずは作品に音楽を付けてくださっているうえのさんとの出会いから、そしてこれからをお話ししたいと思います。

1988年3月から5月にかけて開かれた埼玉博。このときのイベントに出演したときに出会ったのが、フルート奏者・うえの善巳さんとの長いお付き合いの始まり。私がパントマイム、それに音楽を付けてくれたのがうえのさん。初対面だったにもかかわらず、とても気持ちよく音でお付き合いくださった。
ところが、私たちが出演した日は天候が悪く雨が降って肌寒く、ただでさえ入場者が少なかった博覧会場は人もまばら。ステージのある大きなテントには開演時間になっても殆ど観客がいなくて、それはもう寂しくて今思いだしても切なくなるような仕事でした。
そんな中で演奏していたうえのさんと会話を交わすうちに、私の作品に音楽を付けて戴く事になった。その作品がこの「KAMEN」なのです。
以来26年、この作品は国内はもとより海外でも、おそらく以後のステージの殆どをうえのさんの音楽で演じてきたのです。
以心伝心、もううえのさんなしの「KAMEN」は考えられません。

“幻の蝶”はうえのさん始め、複数の方に音楽を付けて戴き、音楽が変わることで作品の空気が変わり、また作品自体も微妙に変わっていく楽しさがあり、今も会場などによって何人かの方の演奏で演じています。

でも、この「KAMEN」は今までのように、これからもずっとうえのさんの音楽とともに演じ続けていく事になるでしょう。
演じていくたびに微妙に変わっていくうえのさんの音楽、毎回、今日の舞台ではどのような演奏となるのか、私にはそれもまたとても楽しみなことなのです。



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MASK-MIME

KAMEN

38th

KAMEN舞台写真